戦後間もない函館で誕生した食の総合商社㈱アキヤマ

創業70周年の歩みと次代への展望

 株式会社アキヤマ 業務用食材・関連機器販売・宅配事業
・北斗市東前3-41 TEL0138-77-7491 https://www.akiyama-fs.co.jp/

昭和26(1951)年、函館駅前で開業した製菓材料店から70周年を経て函館・道南を代表する業務用食材・関連機器販売、宅配事業を網羅する食の総合商社へ成長した株式会社アキヤマ。同社二代目社長の小林久周氏と長男の周平専務、二男の和久常務にその歩みとこれからの展望について語ってもらった。


「メディカルページ函館・道南版2021年夏号」(令和3年7月19日発行)の冊子に掲載された記事です。

 

■小林 久周 社長

 ㈱アキヤマの始まりは昭和26(1951)年5月1日、秋山始一(もとかず)氏が函館市若松町に開業した秋山製菓材料店である。
 東京在住だった始一氏は、戦後間もない頃からたびたび函館を訪れていたが、そのたびに地元の製菓店などから甘味料を頼まれたという。
 「函館に甘味料がなかったので地元の人から頼まれて、東京の御徒町には製菓問屋がたくさんあったのでサッカリンとかズルチンなどを仕入れてリュックに担いで国鉄で運んで函館の駅前で商売したのが始まり。かっぱ橋の問屋街には菓子を成形する木枠などの道具があるから買ってきてなど道具の注文も受けるようになり、函館での商売を決めてスタートしたんです」
 ㈱アキヤマ二代目社長の小林久周氏は、秋山製菓材料店の開業前史をこう話す。開業した昭和26年2月には函館市内22小学校で完全給食が開始されるなど戦後復興も本格化しだし、さらに9月にはサンフランシスコ講和条約が結ばれ、戦後日本は新たな時代に入った。

社員を大切にした創業者秋山始一氏

 昭和28(1953)年8月27日には株式会社秋山商店に法人化。業容を拡大するなかで昭和40(1965)年には、本社を函館市旭町に移転した。
 「当時は丁稚奉公みたいに会社から西高の定時に通わせていた。『うちの社員はみんな家持ち。家賃を払うのは馬鹿らしい。子供は大学に進学させろ』と会長(始一氏)から自慢話のようによく聞かされました。そういう人づくりをしたから60歳の満期で定年を迎える社員も多かった。会長は黙っていましたが、社員には大分をお金を使っていましたね」

小林氏が後継者として入社

■函館市旭町の旧本社

 ㈱アキヤマ中興の祖ともいうべき現社長・小林久周氏が㈱秋山商店に入社したのは昭和51(1976)年6月。小林社長の前職は医薬品メーカーの全薬工業㈱で、埼玉県担当のプロパーとして6年間、医師と薬局を回った。当時、全薬工業には全国に120名の営業マンがいたが、小林社長は毎年トップ賞を受賞。自身も全薬工業に骨を埋めるつもりだったという。
 それが函館の薬局を継いだ全薬工業の先輩・故亀井啓氏からの函館に遊びに来ないかという電話で運命が変わった。実は、亀井家と秋山家は親しい間柄で、後継者を探していた始一氏が亀井氏にお婿さん探しを依頼していたのだ。
 これを縁に始一氏は上京し、何度も小林社長を訪問。「家内よりも実直な始一さんのことをよく知って、お父さんに惚れ込んだんですね」
 二代目代表を継ぐべく華燭の典を挙げたのは入社一カ月前の5月だった。

顧客対応を変えた晴海のフェア

■1977年に開催した拓銀ホールでのフェア

 小林社長が入社した当時、秋山商店の顧客は、菓子店、食堂、ラーメン店など、ほとんどが家族経営だった。しかも調理場仕事は徒弟制度で、腕自慢のコックさんに商品特長を話しても、生意気だとフライパンを投げられることもあったという。結局いわれた商品を持っていくだけとなり、一時は1万アイテムに近い長期在庫を抱えることもあった。
 「商品知識がなければ、いわれたものを持っていくしかない。でも知識があれば、うちはこういうものがあります。今使っているものより、利点があり、値段もさらに安いですとこちらからメニュー提案ができる。うちは製造業ではありませんから、良いものを提供するには、仕入れ先を開拓しなければならない」と話す小林社長は、そのための勉強になったのが東京晴海での食品フェアだったと強調する。
 創業当初は食品機械を中心とした展示会は、共愛会館、拓銀ホール、さらに流通ホールへと会場も拡大し、食材もより豊富に最新の情報を提供するフェアと発展したが、これも昭和54(1979)年、小林社長が東京晴海のような規模・内容でと開催した業務用食材・機器フェアがきっかけだった。

サービスを迅速化した本社移転

■2019年に流通ホールで開かれた第50回業務用食材・食器フェア

 平成3(1991)年4月5日、同社は大野町(現在の北斗市)に社屋を新築移転し営業本部とした。函館市旭町のそれまでの本社では、朝からトラックの音がうるさいなど地域住民からの苦情もあり、移転先を探していた。
 当時の鍵谷大野町長からバイパスもでき交通網も敷かれるという話もあり、現在地の北斗市東前の土地1400坪を買収。本社を新築した。
 口さがない人からは「都落ち」などともいわれたが、物流時間効率化のシステムを組み、函館市内でも旭町時代よりスピードアップ。さらに長万部、八雲、江差など道南地区の顧客へもスピーディーな対応が可能になった。

治療・介護用食品の展開

 社名を現在の株式会社アキヤマに変更したのは平成14(2002)年6月。翌年には全国病院用食材卸売業協同組合員となり、治療用・介護用食品の取り扱いを本格化した。
 小林社長は語る――
 「食は文化とともに生活ですから、65歳以上の高齢者が3人に1人になる時代には、高齢者からの要求がさらに増える。たくさん食べられないとか、糖尿病、腎臓病、がんなどの病気。酸性とアルカリ性のバランスをとるのが日ごろの食生活。それでたんぱく質調整品などの治療用食品や介護用食品の商品を揃えてきました。おかげさまで病院さんから患者さんに退院したらアキヤマさんにこういう食材があるから行きなさいと紹介してもらえるようになりました」

森永乳業特約店として宅配事業開始

■森永乳業の宅配専用商品を家庭に運ぶ宅配車

 森永乳業㈱とは特約店として従前から取引があったが、平成23(2011)年からは森永乳業の宅配事業も開始。宅配専用商品を地域に届けるだけでなく、昨年のコロナ禍には、この宅配ルートを使っての商品販売で注目された。
さらに特約店として、人気の高い森永の生クリームを扱うことから、製菓・製パン業の生クリームシェアはナンバーワンを誇っている。

家業に就くのが夢だった小林専務

■小林 周平 専務

 専務取締役の小林周平氏は平成19(2006)年4月、㈱アキヤマに入社した。
 前職は㈱ヤグチ(東京)。同社は主に業務用食品や関連資材をメーカーから直接仕入れて業務用専業卸に販売する一次卸。丸5年間の勤務の内、最初の4年間は業務用冷凍食品の都内ルートセールス。最後の1年は経理部で経理を担当した。
 「アキヤマ入社直後は創業の原点の製菓・製パンのセールス。前職は問屋にどんどん卸す商売でしたが、お客さんをコツコツ回って、小さな商いが10ケース、20ケースと大きな商売になるんだというのも勉強になりました」と話す小林専務は、「祖父にもいっていましたが、自分の家の商売をするという気持ちが昔からあって、小学校の作文にも『父さんの会社の従業員になる』と書いていましたから、その夢は叶いましたね」と話す。

一新した病院食のイメージ

■本社に併設されたワールドグルメプラザには治療食や介護食のコーナーも

 小林専務は、病院食のイメージを一新した経験を持ったというという。
 「“味気ない”“美味しくない”“ものたりない”という自分の病院食に対する偏見は覆りました。メッチャ美味しいんです。味もしっかりしているし、しかも栄養が考えられていて、温かいまま食べられる」と話す小林専務は、一人ひとりの患者さんの体調や血液の状態から健康状態を判断し必要とされる栄養を根拠だてて、足りない部分を補うための食事という合理的な食事であることも分かったという。
 これからは一人ひとりの人間が尊重され、衛生面、栄養士が付く。「究極」が普通になる。病院でおこなっているような衛生面や栄養士による管理など“究極”のおもてなしが必要になってくるのではないかという小林専務は、改めて病院食などにも携わる家業を誇りに思ったとも話す。
 さらにコロナ禍でも洋菓子や和菓子などは嗜好品としての人気に変わりはない。これからはスウィーツも異業種が戦略的に開発してくるのではと話し、アキヤマとしても異業種への働きかけを意識している。

社員の特性や良さを見極めたいと小林常務

■小林 和久 常務

 小林和久常務は大学を含め14年の東京生活を経て昨年4月、㈱アキヤマに入社した。
 前職は東京の食材商社東亜商事㈱。仕入れから発注業務を経験の後、営業を担当。2年間の販売店担当も経験した。
 「どんな人にもいいところも悪いところもある。そういうところを経験して欲しいと入社の時に東亜商事の社長が僕に話してくれました」という小林常務は8年間の勤務で何事にも積極的に取り組むことを目標としていたという。
 ㈱アキヤマでの役割については、「今の私がやることは、社員みんなのことを見てあげる。一人一人が何をやって、どういう仕事で、チームで動いて、どういう結果を残しているのかを見てあげないとその人の特性や良さも見えなくなるし、見せてくれなくなる。そういうところをよく見ていきたいなと思っています」と話す。

創業70周年以後の展開

 最後に小林社長に70周年以後の展開を語ってもらった。
 「専務も常務も創業100周年までは生きる。来年までコロナが続くとしても売上を戻し、さらに取り返すには収益性を高める商品群や顧客の選定、チャネルも開発していかなければならない。営業、仕入れ、業務など各部門の強化もしっかりやらなければならない。私も含めて専務と常務で、この2、3年で形をつくらなければなりません」

《取材メモ》
 後継者である二人のご子息は、いずれも東京の大手同業者での経験をそれぞれ自社の事業に生かす。かつての高度経済成長の再現が望むべくもない経済環境下だが、70周年を迎えてなおかつ、しっかりと後継者を持ち育てている同社は極めて恵まれた企業といえる。
 食の総合商社として、また地場を代表する有力企業の1社として、80周年、100周年に向けてのさらなる発展を期待したい。

(取材日:2021年6月15日)