口蓋裂学会北海道で第1号の認定師

みはら矯正歯科クリニック・五稜郭むらい矯正歯科クリニック    院長 村井 茂

岩手医科大学 歯学部を、1975年に卒業。直後に札幌医科大学口腔外科に、スキー部の先輩の伝手で、入局。その当時、佐々木元賢教授のもとで勉学に励んでいました。

佐々木教授は、九州大学医学部を卒業し、1950年に九州大学医学部を、1953年に東京医科歯科大学歯学部を卒業され、その当時大変難しかった、小児全身麻酔を研究され九州大学医学部助手、講師、助教授を経て、1961年札幌医科大学口腔外科教授。その後、長崎大学歯学部部長になられた方です。

そのころ、1歳未満の麻酔ができる方はいなかったようで、手術はもっぱら洗濯板に縛り付押さえつけてしていたとのことでした。笑い話で、げんこつ麻酔という言葉があり、子供をげんこつで殴り気絶している間に手術をしたなどの話を聞きました。

したがってそのころは札幌医大でも、小児麻酔ができる方が来られたことは大変すくなかったのではなかったと想像します。佐々木元賢先生が唇顎口蓋裂の手術を手掛けたのは、ながれとしては自然だと思います。

私が、札幌医科大学口腔外科に入局したころは、全道からたくさんの患者さんが来られ、月曜木曜が手術日でしたが、3例、週に6例が、唇顎口蓋裂関係の手術でした。ほとんどすべての手術が、教授が執刀されました。我々新入医局員は、手術介助や外来担当でした。

当時の記憶では、新卒の私のような歯科医に、40歳前後のお父さんが、「私の子供をよろしくお願いします。」と手術前に必死にお願いされました。あまり大きな声では言えませんが、手術の順番が早くなるようにいろいろなことをした記憶があります。

そのころ、函館からもたくさんの患者さんが来られていました。また、いずれは函館に帰り、開業しようと考えていましたので函館に帰ってからこの子らのために、何かできないかと思っていました。またこのころ、苫小牧の口蓋裂の子供と、親が青函連絡船で身投げ自殺をし、記事になりました。

当時、手術は健康保険適応でしたが、その後の治療の矯正歯科治療は、保険外で、2-30万もかかる治療のため、ほとんどの子供が受けることができませんでした。毎日新聞、北海道版で「谷間の口蓋裂児ーこの子らに健保を」のキャンペーン記事が連載されました。そのことを当時の参議院議員コロンビアトップが取り上げ、矯正歯科治療の保険導入が決まりました。

私自身は、口腔外科に4年勤務し、佐々木元賢先生が、長崎大学歯学部創設のため、転出された後東京医科歯科大学より来られた小浜先生の元、口蓋裂児の言語を勉強しました。その当時、言語治療室では、お茶の水女子大出身の伊藤静代先生が、言語治療室を担当していて、一緒にX線テレビ室で、軟口蓋の動きを自作の装置を用いて、観察したことをなつかしく思い出されます。

その際、伊藤先生の知識をもっと新人医局員に理解してもらったいいとお話ししたところ、歯科医ではない自分が、歯科医のみんなに説明しても、興味を持っていくれる方がいないと、私に寂しく話されたことを、記憶しております。

唇顎口蓋裂児の治療は、多くは1歳6カ月まで形成外科医と一部の口腔外科医が手術を担当しており、発語が始まる1歳半以降に言語治療と、乳歯を含めた歯科治療が始まります。また、生後3カ月頃、口唇の部分の手術が必要ですが、顎裂が大きく変位していると、生後1週より、PNAM(術前鼻歯槽形成)が開始されます。現在では当院が担当しております。また、口蓋裂の言語についても、札幌医科大学で一部手掛けておりました。手掛けていないのは、矯正歯科分野でした。

このため、矯正歯科の治療技術を得るため北海道医療大学(旧東日本学園大学)歯学部矯正歯科に入局。5年勤務後、函館市立病院歯科の科長として、先代の山田先生の後釜として勤務しました。その当時山田先生の下で、北海道大学歯学部小児歯科出身の渡辺郁也先生(現在花園町で開業)が勤務されており、函館中央病院小児科の医師から、小児歯科治療のため、口蓋裂患者が函館市立病院歯科に紹介、通院されていました。なお、その小児科医の奥様が、北海道大学歯学部小児歯科で、渡辺先生と一緒に勤務されていたとのことです。

札幌医科大学で口唇の修正術を希望して受診した担当した10歳の函館の女の子のお母さんが、「この子が私を責めるんです。」と訴えていました。当時の耳鼻科の科長が、岩手医科大学医学部で同期であった、金子先生から、見てほしい患者さんがいると言われ、耳鼻科外来に行くと札幌医科大学で受け持った患者さんでした。矯正治療を終えたことを記憶しております。

また、みはら歯科矯正クリニックを開業して10年後くらいに、函館中央病院口腔外科に勤務されている札幌医科大学口腔外科出身の辻先生から、当院に軽度の口唇裂の子の矯正歯科治療を、紹介されて女の子が来院しました。すると、その子のお母さんが、札幌医科大学で担当した女の子でした。おばあちゃんも、元気だとのことで、当時のことを思い出されます。いまでも通院しております。なにか、強い運命を感じております。

昭和58年、市立函館病院に勤務したと同時期に口蓋裂矯正歯科治療の保険導入が決まり、また、日本矯正歯科学会での認定医審査も始まりました。市立函館病院に赴任する前に、米国カナダに短期ですが口蓋裂関係の7施設の見学する機会を得ました。医療技術、システムすべての面で、その素晴らしさに感動し、日本に帰って地方都市函館で実現してみようとの思いを持ちました。

私がみはら歯科矯正クリニックを開業した際に函館中央病院形成外科科長 浜本先生が、北大形成外科助教授からこられました。浜本先生は以前北海道大学歯学部口腔外科の助教授の経験もあり、その当時、札幌医科大学口腔外科、旭川医科大学口腔外科3科で、年に数回合同カンファランスをして、いろいろな症例を検討していました。私も何度かスピーチして、浜本先生とすでに面識がありました。このため、浜本先生は口蓋裂治療に熱心で、中央病院に言語治療室を開設、早坂先生が担当されました。

中央病院で面会した際、浜本先生は、形成外科と矯正歯科との連携が口蓋裂治療は、非常に大切で、形成外科医と矯正歯科医は、ある意味で結婚するような付き合いになると話され、矯正医の立場を、非常に理解していただいておりました。その時に、まだまだ未熟な私を、チームアプローチのメンバーに認めいただけたことは、この面でのすべての始まりだったと感謝しております。

その後中央病院の科長は木村先生に交代し、木村先生は、平成2年から浜本先生の後を引き継ぎ、唇顎口蓋裂の面を深く勉強されました。また当時、日本で最も進んでいた東北大学、形成外科、矯正歯科(幸地省子先生)の治療法の、顎裂部への腸骨海綿骨移植を、提案し、取り入れていただけ、治療した患者さんについて報告しました。この治療法はそのころは北海道では大学を含めても、函館のチームアプローチだけでした。現在は、この治療法が全国的にもルーティンとなっております。

また、骨移植した顎裂部に、下顎前歯を歯牙移植した報告を、全国の他の機関に先駆けて日本口蓋裂学会に共同で発表しました。それ以降、類似の報告が、他機関より多数され、一般化しております。いままで、大学病院がない函館で、大学より早く優れた治療法を手掛け、函館在住の口蓋裂患者により安心していただこうと努力してきました。

医療は、最終的には信頼感だと考えております。このため、全国的に認めていただけるよう、10数年にわたり学会報告をしてきました。また、勉強の一つとして医学博士も授与していただくことができ、日本矯正歯科学会認定医および道南地区で数少ない日本成人矯正歯科学会専門医、指導医と認められました。私も卒業後、45年、口腔外科を経て、矯正歯科に携わり、41年たち、70歳となりました。

昨年、日本口蓋裂学会が、いろいろな科の認定師の制度を初めて設立しましたので、よい機会だと考え、昨年、申請しました。症例提出、その他の審査を受け、この4月に認定されました。おそらくは唇顎口蓋裂患者さんのほとんどは、大学病院に通院しており、地方都市では、手掛ける矯正医は全国的には少ないと思います。現時点では、矯正歯科分野では全国で134名、北海道では私1名です。

いままで、口蓋裂の児に教えられ、治療を続けることができた勲章かなとおもい、いままでお世話になった方へ深く感謝しております。また、唇顎口蓋裂児は、体表の先天異常ではも頻度が高く、知的な問題を持つ子が少ない障害です。函館の人口は現時点で、26万人ほど、周辺をわせて30万人ほどですので、唇顎口蓋裂児の発生頻度0.0018をかけると540人ほどの方がおられることが予想されます。当院に来ていただいている子は、200名以上ですので、ほとんどの方が当院に来ていることになります。

市内で出産された唇顎口蓋裂の赤ちゃんのほとんどは、中央病院形成外科を紹介受診し、多くの方々が、チームアプローチ一員としての当院をこの30年にわたり受診しております。15年前には、形成外科科長木村先生より、PNAM(術前鼻歯槽形成)について相談されました。その患者さんは、重い心臓の障害のため、全身麻酔が受けることが出来なかったため、1歳を過ぎるまで口唇顎口蓋裂の手術を受けることが出来なく経管栄養のみで栄養補給をされていました。

CTを撮影し、そのデータをもとに。北海道工業技術センターの協力を頂き、当院の上野技工士長とともに、顎の模型を作成し、全道で初めて患者さんに装着したところ、今まで経管栄養だけでミルクを飲んでいた児が、哺乳瓶を吸うことが出来るようになり、喜んだことを思い出しました。その子は、現在問題なく、高校生活を歩んでいます。

一番最初に手掛けた研究は、親と子供の心理についてでした。その結果、この函館ですべての治療が提供できることは、この面で大きな安心を与えることが出来たことがわかりました。出生時の親の落ち込みを、地元で、生後1週でPNAMの装置を入れることが出来、今後の医療体制に安心を、感じる。大学のような大きな組織であれば、担当の医師が変わり、変わるごとに不安をかんじるが、函館では担当が変わらず、通院も楽で、安心感を与えていた。しかし、地方で継続的に医療を提供するためには、最新の治療技術の習得を、継続的に続けなければ、安心感を与えることはできません、この面でも、学会その他などから、知識の継続的な習得が必須です。従いまして、この疾患について継続するには、担当する医療従事者の継続的な努力が不可欠です。これからも可能な限り、努力をしていきたいと考えております。

また、2006年に「谷間のこう蓋裂児ーこの子ら健保をー 再発行 (2006.0224掲載分)」を、当時の5名の歯科衛生士により、発刊できたことを思い出し、うれしく感じております。函館中央病院の方々には、いろいろな面でご協力いただきました。退職された初代言語治療室の早坂先生には、教えて頂ながら、発音補助装置を作成したり、特に形成外科科長の木村 中先生には30年間にわたり、お世話になりましたことを深く感謝しております。

(2021年7月1日寄稿)


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